植田八幡宮うえだはちまんぐうについて

  由 緒  

約1500年前の古墳時代中期(紀元5世紀頃)の前方後円墳の上に、文明3年(1471年)、遠江(静岡県菊川市)の有力な武士団であった横地一族(横地氏の祖は源氏の統領で名高い八幡太郎義家)の横地秀綱よこちひでつなが植田に移って植田城を築いた以前から応神天皇を祭神とする八幡社が存在していたと言われています(尾州植田横地氏碑銘録に記載)。
また、第8代横地権蔵秀住は慶長16年(1611年)徳川家康が駿府へ下向の時、先祖一族が忠勤して戦死したことを訴え、家康公より植田村の「永世諸役御免」の朱印を授けられ、植田村が栄えたとあります。
横地一族は植田城主として地域に徳が厚く村の発展に貢献されたとし、初代城主の秀綱と第8代横地権蔵秀住が並祀されています。

他の文献に残るものとして、尾張徳川家の編集した「尾張志」(天保14年、1843年編纂)には、以下のように記されています。
「八幡社、天正八年(1580年)室賀久太夫修造す。是この村の本居神なり、神明社しんめいしゃ山神社やまがみしゃ(二所)植田村にあり」
つてを頼って信濃の小県郡(ちいさがたぐん)から植田城にやって来ていた室賀久太夫は初代横地城主が祀られている八幡社の修理造営をし、後に尾張徳川家に仕官、名古屋城築城の際には親衛隊長(初代御黒門御徒頭)として、大坂夏の陣の際には御使番(参謀)の筆頭となりました。

  沿 革  

文明3年(1471年)

横地秀綱よこちひでつなが植田城築城。それ以前より社は存在

天正8年(1580年)

室賀久太夫 修造

明治5年7月28日

村社に列格

明治10年1月

字東屋敷の山神社、字中屋敷の山神社、字中屋敷の神明社を境内社に移転合併

明治21年10月

拝殿を改築、社務所を新造

明治40年10月26日

供進指定社となる

昭和49年11月3日

社殿を近代的構造により造営

昭和59年8月24日

従来”八幡社”であったが、元々の社格に名称を合わせるため「八幡宮」と上位へ改正

平成27年3月19日

平成26年4月より行っていた本殿の大修繕が完成

平成28年9月25日

本殿前の鳥居を建て替え、竣工式
建て替え前の鳥居は269年前(延享4年)植田村の大先輩である”藤井彌六”氏により奉納されたものである

  御祭神  

本殿ほんでん

八幡大神はちまんおおかみ(応神天皇) おうじんてんのう
応神天皇おうじんてんのうは大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。
東大寺の大仏建立を助けています。応神天皇おうじんてんのうの御母は神功皇后です。源氏の守り神として多くの武将に崇敬されました。
 
横地秀綱よこちひでつな
横地氏の初代”横地太郎”は、八幡太郎源義家と遠江の豪族相良氏の娘との間に1052年に生まれ、その後、横地一族は遠江の有力な武士団となりました。その子孫の横地秀綱よこちひでつなは1471年植田に移り植田城を築き1475年八幡社に並祀されました。また、第8代横地権蔵秀住も祀られています。

弁天社べんてんしゃ

市杵島姫命いちきしまひめのみこと
「厳島神社」や「宗像大社」等に祀られている海の神様です。

神明社しんめいしゃ

天照大御神あまてらすおおみかみ
伊勢神宮の日本の最高神です。

津島社つしましゃ

建速須佐之男命たけはやすさのおのみこと
ヤマタノオロチを退治した天照大御神あまてらすおおみかみの弟です。

山神社やまがみしゃ

大山祇神おおやまつみのかみ
コノハナサクヤヒメ(浅間大社の神様で、富士山に鎮まっています)のお父さんで、三嶋大社等に祀られている神様です。

  神 紋  

石清水八幡宮と同じ、橘紋(たちばなもん)と三つ巴紋(みつどもえもん)です。
植田八幡宮うえだはちまんぐうの法被(はっぴ)には橘紋が描かれております。

橘紋(たちばなもん)

三つ巴紋(みつどもえもん)